昭和43年10月5日 夜の御理解
この度の教祖大祭におかげを頂いてから、今朝から帰らせて頂きましたら、金光様が御祝詞の中に、御奏上くださいました、その中の一節を読んでみます。
天下泰平諸国成就総氏子身の上安全の神祈り、よもの氏子ら救い助けられいくがまにまに、神からも氏子からも両方からの恩人は、此の方金光大神であると、神讃えられつ、明治16年10月10日、かねて御自らつかえ給いてありし、金光大神祭り日、その日70歳をもって、神上がりたまいぬ。
教祖の神様が、新暦で申しますところの10がつの10日に、御大祭は4日、7日、10日、13日というふうにございますがね、その10月の10日、その日に、神上がり、お亡くなりになると。それは、御生前から、金光大神は10月10日に、旧暦と新暦が重なりあって10日になる日がある。その日が金光大神が、お国替えをする日ぞと、生前から言うておられ、その日を金光大神祭り日として、ご自分のお祭りをお仕えになっておられた。それが教祖大祭。ですから、金光様の信心をさせて頂く者は全てが、そこんとこに、私共の願いというものがおかれなければならん。自分で自分の心が拝めれる心。それは天地書附にあるように、「生神金光大神天地金乃神一心に願えと仰せられますから、その和賀心、和賀心というのは、和らぎ喜ぶ心というのを目指して信心をさせて頂くというのが、御道の信心の本当の本筋なんです。ところがその和賀心、和らぎ喜ぶ心を目指さないと、御道の信心の本当のおかげになってこない。ね。目の前目の前、目先目先のことを願うたのではできん。ところがなかなか自分の心の中に、和らぎの心、喜びの心というものが、なかなか頂けん。そこんところを精進させてもらうというのが御道の信心という。
今日もある方が朝から、もうとにかく、まぁ穏やかでない日である。そこで、こういう事ではおかげが受けられないと分かっておりますから、神様に御祈念をされて、「何故今日は一日、神様、どういう事を見ても聞いても、それを言葉に出して、態度に現して、行うたり、言うたりいたしません。どんな場合でもそれを有難く頂いていきますというて、神様にお誓いを申させて頂いたら、その場から心が穏やかになったと、こう夕方御礼に出てみておりました。ね。ですからその神様のお心に叶うということは、いかに私共の心が、どうぞ和賀心にならせて下さい。和らいだ心、喜びの心にならせて下さいと願っただけではいけない。願うと言う事は、ね、どうぞ今日一日、どういうものを見ても聞いても、それを口うるさく申しません。態度に現しません。と、お願いしたら、もうすでに自分の心は願わんでも和賀心に、願わんでも和賀心になっておるということなんです。
金光様の御信心はそこだ。金光大神はそういう日日の繰り返しが、生神金光大神というような、いわゆる自分で自分の心をお祭りになる、金光大神祭り日というような、お祭りをなされられるほどの御神徳をお受けになられたんだと、こう思う。ですからね、どうぞ自分の心の中に和らぎの心、喜びの心をお与え下さい下さいというて願ったところでできない。それでも私がお届けさせて頂いた方のように、ね、和賀心ではない、喜びの心ではない。豊かな心ではない。これではおかげ頂けんことが分かっておる。おかげは和賀心にあるとおっしゃるのに、これではおかげ頂けんことが分かっておる。そこでお願いをされたことは、その事でないことを願っておる。ね。それはいうならば、神様のお喜びということであったのかもしれません。ね。今日はどのようなものを見ても聞いても、それによって腹を立てたり、それによってそれを態度に現したり、また言葉うるそうに言うたりいたしませんということを、神様に誓われたと同時にその方の心の中には和賀心が頂けておられる。それが今日の夕方まで持ち続けておられるところに、御礼参拝でもしなければおられないと言うことになっておるのですよね。ですから、もう構わんから言わんと言ったようなものではなくてですね。それが神様の前にそれが誓うてしようとなしてされるような、私は願い、そういうような生き方、ね、そういう生き方が私は金光様の御信心を頂いていくポイントにならなければならんことだと思うんです。どうぞああして下さい、こうして下さい。というのではなくて、私がこういたしません。こう言いません。と、例えば改まりのことを願っておられるところにです、もうそこには願わんでも頼まんでも、和らぎ賀びの心がここに頂けておられる。もちろんその心には、そういう心におかげをいただけないはずもない。またそういう心がです、積み重ねられて、いわゆるわが心が神に向うて進んでいくとは、そういうようなことだと私は思うのですね。